2012年12月15日土曜日

句楽詩 12月号



ペン画:加藤 閑 『白にがうり』
 


さとう三千魚 ・「はなとゆめ」8
加藤 閑    ・雪なき夜
         忘れるための日記
古川ぼたる   ・ごろん
         言葉を生きる(3)


さとう三千魚 「はなとゆめ」08

浜辺

閑さんから教えてもらったリヒテルの弾く
シューベルトのピアノソナタ第21番 変ロ長調D960の第2楽章を
繰り返し聴きました

閑さんは言いました

シフも名演です
最近のものでは内田光子
ホロビッツの最初の録音も好きですが極めつけはリヒテルでしょうか

繰り返し聴きました
31歳で死んだ男の死の2カ月前の9月に書かれた曲を繰り返し聴きました

2楽章は
暗く沈んで始まって
だんだんと透きとおっていって
一人の男の死の後に残すべき曲と思われました

リヒテルという
ロシア人の弾くピアノを聴いていると
広大な大地が見えてきました

リヒテルは小鳥の気持ちがわかるのだと思われました

わたしは
休みの日には
モコと浜辺を歩きます

わたしは休みの日にはモコと浜辺を歩きます

風が胸を通り抜けます
風が胸を通り抜けます

もうわたしはいなくなって
浜辺をモコがひとり歩いていくのをうしろから見つめます
もうわたしはいなくなって
浜辺をモコがひとり歩いていくのをうしろから見つめます

風が胸を通り抜けます
磯ヒヨドリが遠くで鳴いています
わたしは浜辺ですべてが始まってしまったと思いました
わたしは浜辺でもうすべてが始まってしまったと思いました


加藤閑  雪なき夜


乳母車蜜柑のにほひ移りけり
名画座の看板褪せて公孫樹散る
鳥一羽立ち去りし田の寒さかな
漉し餡の重たき沈黙冬来る
タンカーの船名を消す冬かもめ
鯨来て汝が来歴を捨てよと言ふ
雪しんしん名もなき町に天使来よ
歳月の甘さを恥じる葛湯かな
海胆割れば小さき嵐手に起こる
雪なき夜すでに昭和を忘れけり

忘れるための日記 

2012125日(水)
ぼたるさん、三千魚さんと「句楽詩区」の忘年会。
待ち合わせが神田なので、その前に日本橋本町の画廊を訪ねる。(ギャラリー砂翁+モトス)
古い友人である岩本拓郎さんの個展が開かれていた。水彩による抽象作品。
最初に会ったころ、彼はまだ芸大の学生だったが、そのデッサンの上手さに舌を巻いた。
岩本さんは具象は描かない。抽象の線は具象よりもいっそう正確さが要求される。最近とみにその思いが強い。具象絵画の場合、少々の狂いは見る人の側で補正してくれる。具象は基本的に制作者と鑑賞者が同じ形状のものを同じ対象と認識するところで成立している。
しかし抽象はそうはいかない。かたちに寄りかかるわけにはいかないのだ。そこに抽象のきびしさがある。
期間中の土曜日(8日)に、ギャラリートーク「絵とはなにか」という企画が案内されていた。わたしはその日は行かれないので、彼が絵について何を語るか聞きたいと思った。
「五感のなかで、ひとは視覚に依存する度合いが強い。われわれの生活を見ればそれはよくわかる。しかし、ほんとうに大事なものを前にすると、ひとは眼を閉じないだろうか。すごく美しいものを見て思わず眼を瞑る。あるいは愛する人を抱きしめるときだれもがまぶたを閉じる。あれほど視覚に頼っているのに、これを失ってはいけないと思うとき目を閉ざすのだ。絵とは、見えないものを見えるようにするもの。わたしのその仕事を見てもらいたい。目を閉じるほどに見てもらいたい」
そんなことを彼は言った。この言葉、半分はわたしの創作である。そうでなくとも、彼が実際のトークでこういうことを言ったかは定かではない。ただ、彼のことばはわたしを少しく興奮させた。ずっと絵を描いて生きてきたひとのことばだと思った。その後の忘年会で、わたしがいつになく饒舌だったとしたら、きっとそのせいにちがいない。

2012126日(木)
渋谷Bunkamuraの「マンチェスター大学ウィットワース美術館所蔵 巨匠たちの英国水彩画展」を見る。こういう展覧会にあまり期待はできないが、水彩の技法で参考になるものがあればという気持ちで出かける。結果は予想通り。中では、ターナーがもっとも印象に残るが、それは水彩かどうかとは関係のないこと。展覧会のインパクトでは、先週見た「松本竣介展」に遠く及ばない。(余談だが、1940年代前半の絵はぜひ見るべき)
その足で山手線の反対側のウィリアムモリスに寄る。今年25年を数える画廊喫茶で、一昨年わたしも展示をさせてもらった。毎年12月は店主の日野洋子さんによる個展となる。彼女も抽象ひとすじの人。店のきりもりをしながらの制作では全力を出し切れないのではないかという思いを抱いていたが、今年の作品は見ごたえがあった。抽象の彼女にしては珍しくカップを描いた絵が2点あった。
「抽象として描いているの」とカウンターのなかで笑う。
そういえばキャンバスのきりりとしたカップ、手の中のコーヒーカップと違って、かたちを整えようとするわたしの視線を拒絶しているかのようだった。


古川ぼたる ごろん


東武伊勢崎線の最寄の駅は姫宮です
726分の中央林間行に乗って仕事に行きます

先日、ダイコンを持って座っている女性を見ました
葉っぱもついていて新鮮なダイコンらしい
ダイコンが一本
ごろん 
私も畑を借りて家庭菜園をやってるので
まあうまく育てた
ごろんだと思いました
でも、ダイコンなんて今時スーパーに行けば100円もしないで買えるし
あれ、貰っても喜ぶ人なんているのかしらね・・・・
ごろん一本
女性はだいたい30歳位に見えましたけど、女性の
ごろんってわかりません
ジーンズ履いて、黒っぽいセーター着て、葉っぱのついたダイコンを
ごろんと左脇の方に抱えて、顔を伏せて何かごろんしてました
メガネを掛けていたようですがごろんして
顎の筋肉がこりこり盛り上がったりしていたので
その歯噛みの仕方がどこか
ごろんを電車に持ち込んだことを
ごろんでるようにも見えました
私は春日部で降りて、急行に乗り換えて草加に向かいます
彼女はそのままごろんしてしまい
ごろんがその後どうしたのかわかりませんが
葉っぱのついた
ごろんが心に残りました

乗り換えた北千住行の車内では近頃
笑いがほしくなっていたので
田辺聖子の『川柳でんでん太鼓』を読んでました
すると、53ページ、ひぇー
ごろん
「手と足をもいだ丸太にしてかへし」という川柳が
ごろんごろん
日中戦争中の昭和12年、鶴彬(つるあきら)
という川柳作家の
ごろん
日本中が狂気に陥っていく最中に
人体を物として扱う狂気に人体を物として表現しかえすことで
全体主義の狂気に生々しい抗議をしているのでした
鶴彬は投獄された後に虐殺されるような形で
ごろんされたと田辺聖子は書いてました
そんな国家権力に対して私はどんな抗議ができるのか
ごろんとしてしまいます
むしろ付和雷同し加担した国民に近い
ごろんではないかと
ダイコンのことも
ごろんから離れません
いくら自分で育てたと言ってもたった一本のダイコンを
電車に乗って届けるなんてことをしないのは
だれもそれを喜んでくれる人はいない
だれも100円以下の価値を嬉しいとは感じないと
ごろんしていました
でも
彼女は葉っぱのついたたった一本のダイコンを届けたいと
ごろんしました
そのままそっくり電車に乗せました
それはまちがいない
ごろんです
泥の中から青々とした葉っぱの真っ白な肌のダイコンを
届けたいという情熱をそのまま実行したのです
通勤電車の中の
ごろんです
あのダイコンを商品の価値に置き換えて見ることは
狂気、ごろん 
拷問、ごろん
情熱、ごろん
届けたい情熱の手と足をもいでそ知らぬふりをしている
狂気、ごろん
拷問、ごろん
情熱、ごろん
鶴彬という川柳作家のことを初めて知りました
たった一本のダイコンを届けるという
それは
世の中を画一化してゆく狂気への
ごろん
そう、ごろん
ごろんごろん
そう、そう、ごろん
そう、ごろん
そう、そう、ごろん、そう、ごろん

ごろん


言葉を生きる(3)


「鼎談〈現代詩〉をもみほぐす――そしてもっと詩を楽しむ」(鈴木志郎康 辻和人 今井義行)の第2回で取り上げられていた、辻和人『真空行動』を読みました。感想とまではいきませんでしたが、詩集を通じて浮かび上がってくる詩人の肖像を辿ってみました。

この詩集は昨年(2011年)9月に発行されている。昨年、一度読んで、先週から2度読み返した。読み返すたびに切り口が見えてくるのだが、尻切れトンボになってしまうので、あとがきに書いてある作者の意図に沿ってみたいと思います。あとがきには「何より、『詩作品』としてどうかより、読んだ人にどんなインパクトを与えられるか」、「自分でもよくわからなかった自分の一面が浮かび上がるのではないかと思ったからだ。」と書かれている。
それで、私は、作者=辻和人の一面を詩集のなかから描き出してみたいと考えたのです。ですから、辻さんが想い描いた「自画像」と私が読みとった「辻像」とは違ってくると思います。辻さんが想い描いた「自画像」は、詩が意図したことになるかもしれませんが、その意図したこととはズレてしまうと思います。辻さんはジョルジョ・アガンベンの著作を読むような方で、この詩集の「ⅱ 猫」ではアガンベンの思想哲学が背景にあるようですが、残念ながら、私はアガンベンという名前さえ知らなかったので、その点は、読み切れません。私の手元にあるのは、これが日本語で書かれ、それを読むことができる、ということです。
詩集『真空行動』は「ⅰ 隙」、「ⅱ 猫」の二部構成となっていて、「ⅰ 隙」に22篇が置かれ、「ⅱ 猫」には住居近くにいるノラ猫との関わりを書いた13篇が収められている。35篇が話体で書かれ、書かれていることがらも、想念も理解不能を突き付けるようなことはなく、「これは本当にあったお話です」と始まる。そういうわけで、私もこれを「本当にあった」事実と受け止めて、「辻像」をなぞってみようと思います。
「ⅰ 隙」は22篇が隙というテーマで纏められている。作者が22の隙を取りだして、語る。どこに隙があるのか、それを探してみる。作者はどんな事柄に「隙」を感じたか。
最初から順にメモしてみます。そこに「辻像」がなぞれるかなと思います。数字のあとの下線付きは詩のタイトルです。
1.本当にあったこと:残業を終えて、帰宅途中にあるスーパーで鶏のから揚げを買うときに、白髪まじりのおばさんに手首を掴まれる。10時になれば半額になるから、と。その手首をつかまれた感触を、来世にカメレオンに飲み込まれる虫の感触へと想像を膨らませる。ここでの隙は「ぽーっとしていたぼくの姿」。白髪まじりのおばさんがカメレオンでそのながい舌に飲み込まれるぼくは虫。恐いと言いながらも、どこかエロチック。先日、偶然、辻さんに初めてお会いできました。「詩界のプリンス」(詩人・渡辺洋さんの言)。ハンサムですね。こんなハンサムな男が夜の10時頃にスーパーで鶏のから揚げを買い物籠に取ろうとしていたら、おばさんが親切心に見せかけて、手を握ってきてもさもありなん。という調子で、「滑稽」に語りだされるのでした。そして、人が一番意識的でありながら、最も無防備に晒している「隙」は、「顔」でした。
2.聖なる印:夏の朝早くに目が覚め、ジョギング中に、市民球場らしきグラウンドの、マウンドの上に、犬のフンを見つける。そのフンを「聖なる印」という。うーん、納得ですね。竹を4本立てただけで、四角の空間を作り、そこを神が宿る場所にしてしまう神道。
私たちの身の周りはみんな決められた役割に従って形作られている。そこに異物が侵入してきたとき、それが異物と解れば排除されるが、なんだか不思議な物体だったらどうするか。そんな「隙」。
3.呪い:終電に乗ったら、若いきれいな女性が吊革に掴まってウトウト。吊革に掴まった手にボールペンの走り書き。その女性の勤務ぶりを想像しての語り。手の甲という「隙」。手の主役は内側。手の外側は受け身の部分。手の甲は他者の為にある。撫でられたり、キスされたり、そこに目を注ぐ作者。
4.誰?3年前に取り壊された中華料理屋と古本屋。道路を隔てて右と左にあった。その空き地へのこだわり。右と左へのこだわり。偶然、蘇る記憶へのこだわり。記憶が蘇るという脈絡のすべて辿ることはできない。断絶していて、突然、蘇る。脈絡に「隙」がある。右と左も決めごとのようで、人類共通の謎か。
5.ハッカの味:勤務先のオフィスの空き地に置かれたお菓子の箱の話。お菓子の箱が置かれるオフィスの「隙」。その「隙」についつい無視できずに誘い込まれる。「隙」は「数寄」に通じるか。いや、数寄にはなりません。
6.いたっていいじゃん:公園の鉄棒。鉄棒で逆上がりを練習している子どもの幽霊。昼間の子どもの幽霊に語りかける男はなにものでしょうか。子どもの幽霊を想像したことが、自画像の一部となっている。後半の「ⅱ 猫」で展開されるのが子殺しの物語。
7.喋らなくなった床屋5月の連休の最終日。リップサービスを止めた白髪頭の床屋さん。2007年、作者=辻さん43歳。床屋さんが時代の「隙」に追い込まれる話。
8.イナバウワーのその後2006年トリノ・オリンピック、荒川静香の演技、イナバウワーをめぐるメタ詩のような話。イナバウワー、バームクーヘン、ミルフィーユオリンピック。語感の艶めかしさ。語感の「隙」。もともとは単に音の列なりである声が母親の意識を引きよせ、次第にその声に意味を体験し、言葉を作るという経験のなかで成長する人間。音の列なりは他者を求める。
9.「笑顔」:亡くなった歌手の本田美奈子の話。彼女の最後の詩「笑顔」を揶揄しながらも、泣けてくる作者=辻さん。
10.女王様を救った蛾:車のヘッドライトに浮き上がる影に自分の姿を重ねて、その影を目撃してくれる他者を希求するぼく。
11.一方的:ネットで同姓同名の辻和人を見つけた話。ネット上の辻さんは鰻割烹のご主人。同姓同名という「隙」。なぜか、親しみを覚える同姓同名。名前と言う謎。体に浸みこんだ言葉=名前がなければ遠くには行けない。名前が遠くまで行くことを可能にした。
12.軌跡の姿:寝る時の枕にこぼした涎の話。生き物の体液である涎。寝ている間に体が作る自分の姿。肉体の営みに気づく。満たされていては気づかない。気づくという意識の運動を発動させる「隙」。そして無意識としての肉体。
13.まだ:テーブルに零れた水滴の広がりの話。水の滴は零れて広がりテーブルの縁から落下する。人から逃れ出た物体。もの。ものを役割から解放すると生々しさが出現する「隙」。孤独なもの。
14.見えないものと動かないもの:季節は夏。サンダル履きの素足に猫?のようなものに触れられる。目の前のコンタクトレンズ洗浄液2本。つい最近実証されたというフィッグス粒子のようです。わかったようでわからない不明なものに形づけられている日常。
15.必ず:運転免許を書き換えに行った鮫洲試験場とその付近の話。物陰に潜んでいるものが必ず飛び出してくる講習ビデオ。物陰に隠れいているものを避けることができないぼく。物陰は「隙」そのもの。何が潜んでいるか?
16.語ることはない:社員旅行かしら。友人たちはビリヤードに行き、一人取り残されたぼくは遠くの灯台を見ている。灯台の明滅する光りを見ても何も語ることがないぼく。取り残されたぼくの時間の「隙」
17.約束のない日曜日:ぼくはミステリーが好き。昨夜は遅くまでミステリーを読んでいた朝の遅い目覚め。カーテンの「隙」間から零れる白い光を見ている。まだ眠れる。「幸福とは、こんなサイクルの繰り返しことでも、あるぞよ」と囁く。
18.笑って感じる:東京の積雪に残された足跡の窪みに、足跡をつけた人と一緒に、その窪みに住みたいという夢想。不在の他者=「隙」。
19.なりたい姿:駅の清掃員3人の話。祐天寺駅、中目黒駅、茗荷谷駅それぞれ三者三様の清掃の仕方へのこだわり。第二回の鼎談で、鈴木志郎康さんが熱を込めて語っていた詩です。生きいきと生きる姿を駅の清掃員に捉えた語り。
20.膝をかかえて:夜なかに目覚め、膝を抱えて眠っていたぼく。膝と胸の間の「隙」間に出来ていた体温を持った空間。その空間に語りかけ、一人呟く。「ぼくは君を抱きかかえてあげるから/代わりにぼくをすっぽり包み込んでくれよ」。かそけき他者よ。
21.友達の声:腱鞘炎の痛みから、老齢を迎えて、歩行困難になったり記憶の欠落に悩まされることを想像し、痛みや肉体の劣化現象をお友達と考え、想念を語る。
22.満足:末期ガンで入院闘病中の叔母さんを見舞った時の。満身の痛みに襲われている叔母さんは病院内で聞く、突拍子もない子どもの声や子どもが発する音に救われる。ぼくはそのことに共感する。
以上の22篇が「ⅰ 隙」です。いかがでしょうか。当時43歳の詩人の孤独な姿が浮かんできませんでしょうか。人生の折り返し地点(年齢的に)に差し掛かった独身会社員が日常生活のなかで、体験し、感じたことをいくらか滑稽に語り、他者のぬくもりを求めているように感じ取ったのですが。ここではまだ、他者との触れ合いが想念のなかで、一人の呟きとして、言葉になっているのですが、この前半の「隙」の孤独が、次の「ⅱ 猫」では、生きて仔を生み、育て、食べ、遊ぶ姿を追うようになります。ですから、作者が意図的にそうしたと思うのですが、生きると言う事を、より具体的な生命を持った他者との関係のほうへ転移させたと思うのです。想念の孤独から、肉体が発する手触りへと。
「ⅱ 猫」は13篇が収められている。住居アパートの周辺に居ついたノラ猫とのやり取りが書かれています。
1.いじめ:気まぐれに黒のノラ猫に煮干しを与えたことで、出会いが始まります。交際が始まって、この黒のノラ猫はスルメとミルクが好物なのを知ります。そして、ぼくはスルメとミルクをやるときに焦らして遊びます。そのやり取りが詳しく実況され、その焦らされた黒のノラの様子が鮮明に書かれている。ノラがスルメを食べる姿、ミルクを舌で舐めつくす様子にぼくは楽しみを見つける。その関係をいじめとぼくは考える。少しおどけて。そして、猫との交際はまだ、目と目と交わすだけなのだ。
2.ノラ猫にまつわるこれまでの話&その後の話:交際を始めたあの黒のノラが実は4匹の仔猫の母親だったことを知ります。母猫クロが仔猫4匹を育てている様子は育児というより性行為のようだと語ります。目をそむけたいが、観察します。30分もですよ。ぼくは(辻さん)猫ってホント、どうかしてる、と思うのですが、もうすでに、猫に同化してしまってます。そして、4匹の猫の性格を観察し、記録するのです。そこに書かれたやりとりは実に生きいき溌剌としてます。4匹の小猫にそれぞれ、名前をつけます。三毛の雌「ファミ」、白に黒が混ざった牡猫「レド」、白に少し三毛の雌猫「ソラ」、そして同じ白に少し三毛の雌猫「シシ」。黒のママ猫は「クロ」。作者はここに父猫を登場させません。本当にあった話だからでしょう、事実なのでしょうね。後の方で登場する茶トラ猫が父猫のような気がするのです。その茶トラ猫に子殺しをさせます。
3.爪と牙:真夜中、ぼくはネコジャラシを使って、仔猫たちと遊ぶ。ママ猫クロとは遊ばない。遊ぶ様子が躍動的に語られ、猫の肢体を観察する。爪と牙も。この深夜の遊びの最中に、とうとう、ぼくは猫に触れる。背中に触り、頭を撫でる。三毛猫「ファミ」との念願の恋に落ちる。
4.孤独の先生:三毛の雌猫「ファミ」との交際の様子。ぼくの部屋に入ってくるようになったファミが部屋にマーキングする様子が語られる。そして、「頭をひねり、体全体をひねって/なるべく多くの面積がぼくに触れるようにしている」ファミ、いつものように「抱っこ」するぼく。ぼくが会社に出かける時「歩き始めて振り返ると、まだこちらを見ている」ファミ。ファミに孤独を教えたぼく。これはもう恋愛感情そのものです。
5.妄執?:牡の仔猫「レド」との愛咬物語。ファミに次いでレドもぼくの部屋に入るようになる。語られている語彙を抜書きしてみます。「波打つような白い体が滑り込んでくる 全身をさする 半開きになった口 うっとりと細くなった目 お尻を高く持ち上げる ぼくの顎をぺろりと舐め ・・・・あ、痛っ レド、美しくも不安な男の子 お前はどうしてぼくの愛情を疑うのか?」多感なぼくです。
6.昇格:雌の仔猫「ソラ」との交際。なかなか体を許そうとしないソラが遂に陥落する。ソラにもぼくの愛情が理解してもらえるが、このままぼくの部屋に入るような関係になりたくないとも思うぼく。
7.太らせる:雌の仔猫「シシ」はほかの3匹と違って、人間を最も恐れている。松坂牛をやってもぼくの部屋に入ってこない。ぼくはシシのその人間への恐怖を立派だと思う。
8.良かった:とうとうぼくも仔猫たちの不妊、去勢手術をすることになった。最初に不妊手術をされたのは、一番早くぼくになついたファミ。次に去勢されるレド。そして、ここには書かれてないが、ソラもシシも。一番早くなついたものから犠牲になってしまう、というのは何か人間の心の在り方の本質に迫るところがあります。余談ですが、実は我が家にも2匹の猫がいます。もうすでに死んでしまったのが2匹、4匹とも全部、雌だったので、みんな不妊手術をしました。なにも考えずに、当然のように。
9.真空行動:ファミ、レド、ソラの3匹が夜、ぼくの部屋で寝るようになった。そして真夜中にレドとソラを外に出すが、ファミは外に出ない。そのファミが午前3時頃に目を覚まし活動開始。夜なかに猫が大運動会を催すのを「真空行動」と呼ぶ、それをされては困るので、ぼくはまたファミと散歩に出かける。
10.月下の一群:夜なかに街のノラ猫にご飯をあげる“エサやり”さんたちが月下の一群。高級マンションから姿を現すロングヘアーの中年の女、大型車で乗りつける長身の男性、若い男女のカップル。その人たちがどんな風にノラ猫と関わっているかが語られる。しかも、月下の一群はお互いに干渉しない。
11.万葉の心:給料日の夜、ロシア料理を堪能したぼくは5匹のノラ猫を思い出し、山上憶良の子等を思う歌を思い出す。そして、5匹のノラたちに猫缶を奮発しようと考える。
12.ウルトラ兄妹磔:この辺りで一番体のでかい茶トラ猫が登場する。ここにママ猫「クロ」はなぜか居ない。牡のレドが先頭に立ち、4匹のチームプレーで撃退する。しかし、これで話は終わらない。茶トラの復讐劇がウルトラマンエースのテレビ物語を借りて、続く。茶トラは4匹のぼくの愛猫たちをマタタビに毒を仕込んで、捕える。そして、4匹の愛猫を次々に磔にする。最後にぼくはこの4匹の愛猫たちの里親探しを真剣に考える。
13.ノラ猫にまつわる大変な話:ファミとレドをぼくの実家に引き取ってもらう話。最初にファミを小田急線の伊勢原の実家に届ける物語。ノラ猫から家猫=愛玩動物にされる猫たちの運命について考えたりする。『ソフィーの選択』とか書いてあるが、私はこれも読んでないので、この辺りの問題はあとにします。クロは時々今までのようにぼくのアパートに来るが、ソラとシシはまだ行方不明で夢で会う。以上が「ⅱ 猫」の要約です。
このように要約を書きだしてみると、ノラ猫との出会いと別れは「ぼく」の心の中で繰り広げられる物語が深層に流れている。「ⅰ 隙」で描かれた壮年期の男は何気なく気づかされる「隙」を通して孤独な自画像を描きだす。「ぼく」の発見した「隙」を通じて膨らんで行く想念はやがて、「隙」そのものとの出会いを求め、ノラ猫に辿りつく。そうして、ノラ猫との文字通りの体と体の触れ合いが語られる。まるでその様子は疑似恋愛で、そこで繰り広げられる感情は恋愛を彷彿とさせる。ところが、ぼくは4匹の愛猫を磔にしてしまうのだ。愛猫たちはテレビ物語に仮構されて処刑されるが、実は「ぼく」が滑稽めかして語っているのは、「ぼく」自身の愛すべき「ぼく」を処刑しているような気がしてくるのだった。この詩集は「ぼく」の心の内なる「子ども」を殺す物語、と読めるのでした。
そして、辻和人さんは、この秋、ついに婚約を果たしました。辻さん、おめでとう!!!