木蓮の花まで散歩 古川ぼたる
東京の開花予想は明日
三月三十一日
日本橋からおおよそ北東へ四十キロ
離れたこの辺りは
もう少し遅れるだろう
それにしてもこの
南風のすごいこと
なにもかも吹っ飛んで
丸裸になりそうだよ
そんな強風が夜通し吹いて
昨日よりもっと激しく
玄関を叩いているから
外に出て見れば
いつも行儀よく並んでいる
へら鮒釣りも今朝はいない
いつも浮き寝している
鴨の群れも今朝は見えない
逆流してくる
白波ばかりが忙しく珍しく
立っては消え立っては消え
消えては立つ
白波の古利根川
消えてしまった鴨はしかし
消えてしまった訳ではない
消えてしまった川鵜はしかし
消えてしまったのではなく
土手に上がってしばし
この大風から非難しているだけなのだ
その証拠に
この猛威のなかでも
何を最も恐れなくてはならないか
何から身を守るべきかわかっているから
この騒々しい大風のなかでも
ちゃんと
人間である私の
何かを察知して
番いの大鷭が
白波の中に
見事に着水
白く鼻筋を引いた
二匹の大鷭は
人間である私の何を察知したのか
人間である私には察知できない
人間である私はただ妄想するだけ
危険を妄想し
その妄想に怯え
たくさんのものを構想し
構築してきた人間という世界
鉄塔から鉄塔へ張り巡らされた
送電線が鳴っている
その上空にある
薄黒いたくさんの雲が流れ
重い雲を押し流す力が
音を立てて急いでいる
吹き飛ばされて倒れた自転車と
鮮やかな黄色の花を咲かせた
見事なミモザの木が
この世界から一刻も早く
逃げ出したいかのように
身悶えしている
でもしかし
この世界から一刻も早く逃げ出したいなんて
ミモザも
もっと大揺れのクスノキもメタセコイアも
シュロもケヤキも
白い木肌のユーカリも
そんなことは思いやしない
そんな風に妄想しているのは
いま生きている人間だけ
私だけ
私という表現に過ぎない
その証拠にはならないが
今通り過ぎてきた霊園では
卒塔婆がガタガタガタガタ鳴って
こんな日でも
山吹色の袈裟を着た坊さんと
喪服を着た親族が納骨していた
なんとありがたいことに
自分では始末のしようがないことを
儀式が始末してくれる
儀式のありがたさ
なんでも始末してしまう儀式の怖さ
こんな日でも
黄泉の使いである大烏は
こんな大風に
真っ黒な羽を遊ばせている
羽ばかりか
目玉まで真っ黒な大烏は
駐車禁止の看板から
不法投棄禁止の看板へと
大風に逆らうように
人間の決めごとを笑うように
しばしホバリングし
楽しんでいる
東京の開花予想は今日
三月三十一日だけど
ここの蕾はまだ青く
青い蕾から
初々しさが少しだけ見えている
たぶんこの南からの熱で
ここの桜ももうすぐ開花するだろう
水仙はもう花盛りだし
梅は花吹雪となって風に舞っている
そして
白木蓮の花はもう咲いている
純白の
小さな壺のような花が
強風になぶられている
少し早すぎた純白
というわけではなく
白の木蓮は毎年
大風のなかで咲いている
大風の夜風に吹かれて
小さな壺のような
白い花弁の重なりは
その縁が傷んで
悲しい色をしている
取り返しのつかないことになってしまって
途方にくれた色をしている
木蓮の純白返済不能也