2012年10月14日日曜日

句楽詩 10月号


 
さとう三千魚・・「はなとゆめ」6
加藤 閑  ・・・雁渡
古川ぼたる ・・・言葉を生きる



ペン画:加藤 閑 『ユリノキの実』
 
  
さとう三千魚  「はなとゆめ」06


個展オープニングの帰りにキミから
スガアツコという女性の名前を聞いたときには驚きました

なるほどという思いもありました

闇という言葉は
桑原正彦の
ドローイング展「はなとゆめ」の作品タイトルに使われていたのです

深夜に荒井くんから電話があり
ブログで詩を発表していることをダサイと批判されて
電話を切り
座布団で眠っているモコを見ていたら
眠ってしまいました

夜半
夢にうなされて泣き叫ぶキミの声で目覚めました

悪い夢みたの
悪い夢みたの

苦しみや
欠如によって
先立たれないような
苦しみや欠如によって先立たれないような渇望もあるのだと
語りかける
声があります

私たちよりも先にあり
私たちを闇の中に照らし出している声があります

モコは座布団の上のわたしのパジャマにくるまって眠っています
モコは座布団の上のわたしのパジャマにくるまって眠っています

わたしは座布団で眠っているモコを見ていたら眠ってしまいました
わたしは座布団で眠っているモコを見ていたら眠ってしまいました



加藤閑    雁渡


良宵や古典の栞新しき
ペリカンの(くち)いっぱいに秋の色
佃煮の鯊新米に泳ぎつく
釈迦の手を這ひ出てみれば薄原
天国と書かれしドアの熟柿かな
黄落や獣毛臭ふ父の部屋
体内のみずうみ深く蛇を飼ふ
月光の閂を抜く青さかな
もうあとは海だけの町海鼠食ふ
雁渡る胸に小さき炉を持ちて


古川ぼたる 言葉を生きる


924日にSNSに公開された『鼎談〈現代詩〉をもみほぐす そしてもっと詩を楽しむ』(鈴木志郎康、辻和人、今井義行)を読んで、刺激を与えられた発言をそのまま順番にメモしました。一読した感想は、詩を書く勇気を与えてもらったこと。タイトルの「言葉を生きる」は鈴木志郎康氏が詩について語るときに必ずと言っていいほど言われるキーワードなのだが、とても多義的なので、その輪郭を追ってみたいと思ってタイトルにした。ここでの3氏の発言はそのひとつひとつが詩を考えるうえで深い問題ですから、私には手にあまるものなので、私用のメモを( )に書いてみました。

辻 :現代詩特有の持って回った言い回し、表現法に対する拒否感がありました。詩は本来書く人と読む人がもっと素直に触れ合えるはずのものではないのか。

(私は詩を書いている時は、詩はこういうものだろうと思いながら書いているのだと思う。そのこういうものだろうと思う思い方が、無意識のうちに想定している読者なのではないだろうか。その読者とは、たぶん、詩はこういうものかもしれないと考えている自分自身なのだ。辻さんのように、読む人を具体的に考えたことはなかった。三千魚さんや閑さんがどう読むだろうかということさえも。辻さんは〈「作品」としての体裁を重視する余り個対個の触れ合いを軽視しているのではないかとも言っている。それは、詩は伝えようとする内容に重点を置くべきだ、という方向になっていくのだろうか。辻さんの最新の詩集『真空行動』のなかの[月下の一群]は、野良猫に餌をやるために夜毎に通ってくる人たちの話で、私はそれを虚構かな?と思っていたが、そうではないようだ。そのような人たちがいるという事実。それは現代の都市に生きる人たちの事実なのだが、事実が書かれた時、都市に生きる人の孤絶が象徴に変貌して浮かび上がってきたので、郊外の田舎にすむ私にはミステリアスだった。)

今井:自分にとって「詩とは何か」を考えますと、人によっては、「芸術として屹立しているもの」かもしれませんが、僕がミクシィに非常に魅かれて、書き続けている理由は、「コミュニケーションの手段」だからです。

(今井さんの「今日の詩篇+過去の詩篇」をミクシィで毎朝読んでいる。時々、飛躍した表現があるけれども、多くは事実を記し、その事実に対して今井さんが感じたことや考えたことが普通の話し言葉で書かれていて、伝いたい内容そのものが詩として提出されている。詩はそういう事実や体験や感じたこと、考えたことをイメージやほかの事物に虚構することと漠然と思っていたが、・・・。これは詩です、とさしだされた時にそれが事実か虚構かの判断をどうやって私はしているのだろうか?これは、言葉です、と言われれば、見せられた文字を見て、そうだなと納得するけれども、詩です、と言われるとその書かれていることが、事実か虚構かの判断は難しい。特に、普通に話されている話し言葉で書かれた詩だと一層、難しくなるような気がする。けれども、辻さんの[月下の一群]を虚構として読むと、都市に生きる孤絶のリアリティーが失われてしまう。同じように、今井さんの詩を「作品」として読むと、伝えようとしている内実が失われてしまう。「作品」に向かわず、「声」に向かっている、と理解するととても切実な「声」として伝わってきます)

今井:相手があることによって成立することなのです。

(読んでくれる人がいて成立する詩、読んでくれる人に伝えたい詩、読まれることに喜びを持つ詩なんだ、今井さんのしていることは。率直にいって、読まれることに喜びを持たない人はいないだろうけれども、相手に伝わって初めて成立する詩は今井さんから出て行って、人に出会うことを求めている「声」、その言葉なんだ。)

鈴木:詩人と言う存在については「俺、詩人なんだ」と詩を書いていない人たちに対して言うつもりはないんですよ。

(鈴木志郎康さんのこの発言は、驚き。詩人は言葉を切り開いているその行為の最中が詩人であって、詩人と言う存在はない、ということなのかしら?少し違った観点から、詩人についての鮎川信夫の詩、『必敗者』を思い出した。〈われわれのコーネリアスは いまどこにいるのだろう?〉。〈コーネリアス〉は、宝くじで大当たりしたが、大当たりした賞金を全部、老楽師にくれてやってしまう、詩人であることの〈自己証明〉の為に。この問いは鮎川自身に向けられてもいるだろうけど、当然、読む人にも向けられ、「詩人とは何か」いう問いになるだろうが、下根衆生のわが身に引き寄せれば、あまりにも聖なる問いであり、聖なる答えだ。『必敗者』は胸を締めつける、とても好きな詩だ)

鈴木:人の書いた詩って、わからないんですよ。

(「詩の現前に向かって」(『結局、極私的ラディカリズムなんだ』所収)には、以下のようにある。〈現在のわたしの考え方からすると、活字になった詩は「詩という表現」の抜け殻ということになる。〉〈詩を書くというのは、最終的に詩という形にするために、言葉を選ぶというところで、その言葉の実質の一瞬一瞬を生きることだ。〉〈詩を表現の現前に戻したい。詩を書いている詩人の喜びに近づきたい〉。これが書かれたのは、2006年だから、7年かけてこの鼎談が成立しているということになる。まさに、言葉を生きる。)

辻 :現代詩の「相手」というのは「現代詩」自身でしかなくて、現代詩が現代詩と認められるために書かれているように思えてきて、嫌になってしまったんですね

(これは、私のように無自覚に「詩」のようなものを書こうとしてるものには、苦い指摘。「詩」のようなものって言っている、その「詩」のようなものこそ、問い直さなくては。「詩とは何か」と自分に問いかけているようなつもりになっているが、その実は、「現代詩」に近づこうとしてる、のだろうな。形だけ「詩」に似せてしまうんだろうな。でも、一方で、詩という形にはとても力があるような気がする。詩という形がすばらしい、と思っているので、私は詩を書きたいと思っていたことに今、気がついた。)

鈴木:やっぱり人って生きていて存在感がほしいわけですよね。
鈴木:街にいろんな生き方をしている人たちがいて、それは「小さな事件」なんですよね。

(生きているのに、生きていることを否定するのような社会を人間は作りだしてしまっているのだな。否定してくる力は象徴的には、金、知識、能力。量の多少で人を相対化する。それらの結果としての権力。それらがそれを持たない人間を評価し、評価に値しない人間を下に従えることを当然のように馴到し、それを当然のようなことにしている社会を作りだしてしまった。その否定する力、金、知識、能力を否定するわけではないが、その力は個人が所有したまま他の個人を否定するように働かせるものではない、と思うのだが。そういう否定してくる力をすり抜けて、生きること、それは事件、ということかしら?鈴木志郎康さんは、詩の世界でも、現実の世界と同じ構造のなかに詩を書くことが置かれていて、それを突き破ることに、詩を書く意味を求め、そして、それがプアプア詩に実現され、それはまさに詩の世界に事件として登場することになった、というふうに理解しているのだけれども。)

今井:書きたいことを書くのが、出発点だとおもいますよ。

(今井さんの「書きたいこと」とは「伝えたいこと」。いま、こんふうに生きて、こんなことを感じ、考えているよ、ってことを伝えたい、そういうことか。伝えたい、という気持ちが、書かせている。なんか、少し理解できた。)

辻 :どんどん改行するとか凝った比喩を使うから詩なのではなく、市場を気にせず、書きたいことを自由な形式で書くのが詩の第一の特徴なのではないですか。書きたいように書くのが詩の生命線であって、それを放棄したら詩の一番良いところを失うことになる。

(辻さんのこういう発言にはとても勇気をもらえる。今井さんの「書きたいこと」、辻さんの「書きたいこと」の「たい」とは?。「たい」を「伝えたい」で完結できればいいのだが、「伝えたい」内容を読まれ、内容を問われ、評価されるというところで、「たい」が意気消沈し、「たい」が失せる。「たい」を奪い、否定するものをすり抜けて、「たい」を実現することが詩だと言いたい)

鈴木:芸術って、みんな倒錯なんだよね。でも、詩が倒錯しているか、していないかという問題はあると思う。

(この「倒錯」という言葉は、普通に「社会的規律に違反する行為のこと」と理解していいのだろうか。性的倒錯という場合は、自然な生殖行為から逸脱してしまうこと。性交を楽しむという時には、既に、倒錯が始まっていると思えるけど。言葉を楽しむ、ということも既に、倒錯が始まっているということ。言葉を楽しんでいる、そういうことは日常の中にもいろいろある。ダジャレを飛ばしたり、尻取り遊びなんかして。ダジャレも尻取り遊びも、言葉の社会的規範から外れ、違反した言葉の使い方。)

鈴木:間違って書いたら書いたで良いんだよ、詩人は。言葉の制度なんて無視してやってっちゃうのが詩人なんだから。

(間違いには多くの意味があり、間違いを生きることもできるのが、詩の特権。間違いを許さないのが制度であり、規範。)

鈴木:そうしたら、詩人もそうなんだよ。3歳からやっていって、どうやったら言葉が面白くなるんだ、言葉を生きることを学べるわけ。

(人間が言葉を獲得するっていうのは不思議なことだ。肉体の中に言葉が張り巡らされていくのだから、すごいことだ。そのすごいことを制度の側の表現を維持するために独占されたのでは言葉は一部の人の表現のためのものになってしまう。一部の人の言葉だけが表現であって、それ以外の人の言葉は表現でなくなってしまう。それでは金や知識や能力がそれを持つ人の方にどんどん集められている今の社会制度と同じことだろう。61歳からでは遅いけれども、3歳には戻れませんが、言葉を生きることを学ぶつもり。)

辻 :吉本さんの中では、詩人というのは一般大衆と違う、知識人に属する人たちだということなのかな。
鈴木:それが、日本の経済的な発展に従ってね、もういまは、普通の人もみんな詩を書くわけだしさ、書いている人がインテリとは限らないしさ、そう考えていくと『戦後詩史論』(思潮社)の中で語られた戦前のある種の階級社会にいきていた人たちには当てはまるけど、現代の人たちには当てはまらない。

(私が詩を読んだりするようになったのは、18歳ころだったと思う。高度成長時代に高校進学が当たり前のようになり、大学進学率も高くなってきた。テレビニュースでは過激な学生による羽田闘争が放映され、その様子をわくわくしながら見ていた。そして、アメリカのベトナム反戦運動・公民権運動、中国文化大革命、フランス5月革命、全共闘運動などが起こり、そのころに吉本リュウメイを読み、その口調のカッコよさ、論敵を罵倒する言葉の鮮やかさに圧倒されて、口真似をするようになった。こういうことは自然にそうなるもので、いわゆる「知的大衆」予備軍みたいなもので、詩を読んだり、書いたりすることも大衆的になってきたのではないだろうか。そしてその頃、鈴木志郎康さんのプアプア詩を友人が見つけ「なんじゃこれは」と言って、笑いながら読みあったのだった。それから半世紀近く経って、今はその大衆である私よりも知的な大衆が大半を占める社会になっている。そんなふうに社会の変化と詩を書くことを並べてみると、なるほど、私が詩を書きたいと思う事は、大衆的なことだと思った。そして、超高齢化社会となった今、俳句や短歌を書く高齢者はおそらく百万人は下らない数いるだろう。俳句や短歌は定形をもっているから、入りやすいだろうが、定形をもたない詩は入りにくい。それでも、詩を書く人も何万人もいるのではないだろうか。人間は表現して、それを他人に見てもらって、認めてほしいと願う。それは自然なことなのだ、と思った。

鈴木:「言葉を作る」というのと「言葉を道具として使う」ことの違い。詩人は、言葉を刀鍛冶のように、道具として作って行く人。

(これは今の私の力ではなかなか実感として理解することが困難です。動物は道具を使うけれども、人間だけが道具をつくる動物だという。ある種のサルは道具をつくるというのを何時だったかテレビで見たような気がするが定かでない。言葉をつかんで切り開かれた想念が次の瞬間には壁になって立ち塞がり、更にその壁を言葉によって切り開いてゆく。そういう想念と言葉の運動体が実現されることか。